人の名前が出てこない、今日やるべき用事が抜け落ちてしまった……。そんな風に“忘れる”ことは、誰にでもあります。もしかしたら、そのたびに自己嫌悪に陥っているかもしれませんが、実は忘れるのは自然なこと。むしろ脳が健康な証拠なのだそうです。脳が“忘れてしまう”メカニズムがわかれば、落ち込むことが減るばかりか豊かな生活が広がっていくかもしれません。
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実はそれ、健康な脳の証拠!“忘れる”は、豊かに生きる力。
日々のもの忘れ。実は重要な記憶ではない!
映画やドラマのおもしろさを伝えるべく、友人に話し始めるものの「あの俳優さんが出てるのよ、監督はあの人で、えーっと……」と、誰の名前も出てこなくなることはしょっちゅう。スーパーに出かけて、買うつもりだったものをいくつか忘れて帰ってくることも多々。そういった自分の“もの忘れ”に直面するたび、筆者は「なぜこんな簡単なことを忘れてしまうのか」、とため息が出てしまいます。あなたにも、似たような経験があるのではないでしょうか?そんな、もの忘れが多い私たちにとって、喜ぶべき最新の脳科学の研究結果があります。 なんと脳は、もともと忘れるようにできているのだそうです。 お話をお聞きしたのは、東千葉メディカルセンターのセンター長、岩立康男先生。長年、脳神経外科の臨床と、脳科学を研究している先生です。
「多くの人が、忘れるのは悪いことだ、忘れないように努力しないといけない。そう考えているように思いますが、 実は脳は積極的に記憶を消すための機能を持っています。 さらに記憶を消すために多くのエネルギーを使っているとも考えられています。よく会うわけではない人の名前や、買いたかったものなどを忘れて、悩んだり、クヨクヨしたりするかもしれませんが、それらの記憶は、あまり重要なことではないと思いませんか?実は、そういった 重要ではない記憶はどんどん消されていく ものなのです」
一度覚えたことを忘れてはいけない。今までそう思ってきましたが、確かに日々のもの忘れの内容は重要とは言えないものばかり。単純な記憶だと言えます。
「今どうしても買わなくてはいけないもの、今日の予定など忘れると困ることは、メモやスケジュール帳に書き込んでおけばよいのです。俳優の名前が思い出せないなら、スマートフォンを使って調べればいい。なぜ、脳がいらない記憶を消していくのかというと、簡単に言えば新しい記憶を得るためです。 忘れるのは、脳が健康な証拠。忘れてもいい記憶は、きちんと忘れることが、脳の健康を維持するために大切 なのです」
もの忘れは、経験が増えた証拠。
もの忘れは、悪いことではない。そう理解しようとしても、年齢を重ねるごとに増えていくもの忘れには、やはり不安を感じてしまいます。
「 加齢によって、情報をやりとりするニューロンという脳の神経細胞が減っていきますから、新しく記憶できる量も減っていきます。 さらに、年を重ねると、経験が増えることも理由のひとつです。 すでに経験していることは新鮮に感じられなくなるため、記憶に残りにくくなるから です。これは誰にでも起こる、自然なこと。病気ということではありません。脳の機能を最大限に引き出すには、忘れたほうがいいのです。長年患者さんを診ていても、『もの忘れが多くなってねぇ』とニコニコしている人のほうが、考えが深いなと感じます」
見たことや経験したことが、どのように脳に保存されるのか、どのように不要な記憶が消されていくのか。それを知れば、きっとこれからの生活が、もっとよい方向に変化していくはずです。
脳が、重要かどうかを判断。忘れやすい記憶、忘れにくい記憶。
情動が関係する記憶は、ずっと忘れない。
私たちが、 もの忘れだと言っているのは、多くが“単純な記憶”。 名前や予定、数字といったものがほとんどです。
「記憶は、その性質によっていくつかの種類にわけることができます(下の図を参照)。まず大きくわけて、言葉で表せる【陳述記憶】と、言葉で表せない【非陳述記憶】があります。陳述記憶は忘れやすい記憶、非陳述記憶は忘れにくい記憶です。もの忘れの多くは、陳述記憶に分類される【エピソード記憶】です。いつ、どこで、何をしたなど過去の出来事の記憶や、明日何をするかといった予定の記憶など、“記憶”という言葉から想像されるものはすべて含まれます。 エピソード記憶は、重要ではない記憶としてどんどん消されていく ので、もの忘れが起こるわけです」
一方の、忘れにくい記憶である非陳述記憶には、【手続き記憶】と【情動記憶】があります。
「手続き記憶は、身体の動作に関する記憶です。歩く、自転車に乗る、ペンを持つなど、それができるようになるための身体の動作の記憶です。そして情動記憶は、出来事や情報に接したときに、喜びや恐怖など、どのような情動が起こったかをインプットした記憶のことです。これら非陳述記憶は、子どもの頃に得たものでもしっかり存在し、生涯消えることはありません。 なぜ重要な記憶として蓄積されていくのかというと、生存のために必要だから です。生きていくためには身体の使い方の記憶は不可欠ですし、例えば情動のひとつである恐怖と関連した記憶は、二度と同じ目に遭わないよう、工夫するために必要です」
記憶の分類
新しいニューロンが古いニューロンを消去。
エピソード記憶のような、不要な記憶が消えていく理由は、新しい記憶を獲得するため。先に先生が話していたことを、さらに詳しくお聞きしました。
「先ほども少しお話ししましたが、脳には情報をやりとりするニューロンという神経細胞があります。その数は1000億とも言われ、それぞれが接続されて膨大なネットワークを築いています。情報が入るとそのネットワークに流れ、記憶として脳の中にファイルされていくわけです。1000億もの数があるニューロンですが、それだけでは次々に入ってくる情報に対応できません。そのため、新しいニューロンが作られることになります。 その主な場所が、海馬という脳の器官。小指ほどの大きさの小さな器官で、スペースに限りがありますから、際限なく作るわけにはいきません。 そのため、 驚くべきことに新しいニューロンが、古いニューロンを消去している のです。脳の重さは、わずか1・4キロほどしかありませんが、全身がとり入れる酸素やエネルギーの約20%を消費しています。はっきりとはわかりませんが、かなりの量のエネルギーが古い記憶を消去するために使われていると考えられています。先ほど、加齢によるもの忘れの話をしましたが、既存のニューロンの減少に加えて、この新しいニューロンが作られにくくなることも大きな理由です」
脳の容量にも限りがある。そう思うと、筆者は増えていくもの忘れに必死に抗う必要はないのかと、ちょっとホッとしました。
嫌な記憶は残りやすい。“覚える努力”を、しないこと。
くり返し思い出す。それで記憶が定着する。
エピソード記憶のような不要な記憶を捨て、大切な記憶を蓄積する。ここまでで、脳が持つその仕組みをおわかりいただけたかと思います。では、どのように大切な記憶を保管しているのでしょうか。先生にお聞きしました。
「日々の出来事から得られる情報は、海馬にある新しいニューロンによって記憶として形作られます。しかし、そのほとんどが数十秒から数十分しか維持できずに消去されていきます。ただ、 エピソード記憶であっても、何度も何度もくり返し思い出したものは、“重要な記憶”として認知されます。 そして海馬から大脳皮質にある記憶の保管庫へと移されるのです(下の図を参照)」
重要な記憶は、保管庫に移される。
エピソード記憶は、まず海馬に保存されます。ほとんどを忘れていきますが、くり返し思い出した記憶は“重要な記憶”として認識され、大脳皮質にある保管庫に移されます。
脳は忘れるようにできているからこそ、大切なことは早めにくり返し思い出すようにすればよいそう です(下の図を参照)。試験勉強なども同様に、授業などで一度覚えたことをできるだけ早く、くり返し復習すると忘れにくくなります。
「新しい記憶のほとんどを忘れていくものの、“嫌な記憶”ほど忘れられないという人もいるでしょう。その理由は、何度も何度もくり返し思い出してしまうからです。例えば、誰かに失礼なことを言われたとき、『なんでそう言われてしまったのか』と何度も考えてしまうのではないでしょうか。これは嫌な記憶を復習しているようなものです。さらに、嫌な記憶は、忘れにくい情動記憶にあたることも理由です。先ほどお伝えしたように、情動に関係する記憶はしっかり残るようになっています。嫌な体験は、怒りや悲しみを伴うものです。『ムカつく!』とか『私が悪いの?』など、さまざまな情動を伴います」
記憶は、時間が経つほどに忘れやすくなる
上にあるのは、時間が経つほど記憶が失われやすくなることを表した、【エビングハウスの忘却曲線】。初期に急速に記憶が薄れていくので、早めに思い出す(復習する)ようにすると、記憶が定着しやすくなります。
忘れるために、落ち込む時間を!
忘れたいのに、嫌な記憶は忘れられない。筆者もそうで、嫌な記憶はいくつも残っています。
「嫌な記憶は、脳が生存のために重要だと認識する部分はありますが、それはやはりストレスになります。嫌な記憶を残さないためには、意外にもしっかりと落ち込む時間が必要です。落ち込んで何もせずに、ぼーっとすることが記憶を残しにくくするのです。これには、脳の二大システムである【集中系】と【分散系】のうち、分散系の働きが関係しています。集中系は課題や目的に向かって集中して作業をするときに活性化するネットワーク。分散系はその逆で、何もしないときに活性化します。 落ち込んでいるときは、この分散系が活性化。記憶を作るための新生ニューロンを減少させ、嫌な記憶を残りにくくします 」
落ち込むというのは情動ではないの? と思いましたが、それは情動とは別ものだそうです。
「嫌だと感じた出来事そのものを思い出してしまうと効果がありませんから、落ち込むという気持ちに浸り、ぼーっとする時間を持ちましょう。記憶を残りにくくしたら、次はその記憶を消していく行動を。ワクワクするようなチャレンジが効果的です。新しい知識を得たり、新しい経験をすると、海馬に働きかけ新しいニューロンの増加を促します。 新しい記憶をどんどんとり込むことが、嫌な記憶の消去につながります 」
使うのではなく、休ませる。忘れるからこそ、考えられる脳に。
忘れることで人間は進化していく!
不要な記憶を消去し、新しい情報を記憶としてとり込む。実はこの、 新しい記憶を得ることが、私たち人間の豊かさにつながっている そうです。
「新しい記憶を得ることで、考える力を育めるからです。“考える”とは、記憶があるからできること。保存してあるさまざまな記憶と新しい記憶を組み合わせて、新たな視点、解釈を見いだすことができるのです。また、“考える”は、“忘れる”を促す効果もあります。このことから、あまり考えない人ほどエピソード記憶が溜まっていきやすいとも言えます。ただそれは、さまざまな記憶と結びついたものではありません。もの忘れはしないかもしれませんが、記憶をもとに、新しいことを生み出していくのは難しいでしょう」
人工知能(AI)が、人間の知能を超えるのではないかという声もありますが、先生は、そう考えていないのだそうです。
「AIは、膨大な情報をすべて記録できます。その点では、人間はまったく及びませんが、AIが大量のデータをもとに下した判断は、非常に画一的なものです。人間は、それぞれの経験からさまざまな情報を得ています。その中から厳選された記憶を結びつけて考え、生み出したものは実に多様。これにAIが勝てることはないと、私は考えています。 忘れることは、自分の頭で考え人間として進化していくために重要 なのです」
鍛えるだけでなく、きちんと休ませる。
筆者は今まで、忘れないために、脳を鍛えるべくたくさん使うほうがいいと考えていました。しかし、それは違うのだそうです。
「脳の使い過ぎはよくありません。疲れたら休ませることが大切です。ただ、やはり適度に使わなければいけませんから、先ほどお話しした集中系と分散系をバランスよく使いましょう。それには、疲れたり飽きたりしたら、違うことをするのが有効です。それもまた、脳を休ませることになります」
睡眠もとても重要だそうです。
「睡眠中は記憶を整理、定着させる作業が行われていますし、記憶に関係するたんぱく質の合成、不要になったたんぱく質の排出も行われています。睡眠不足になると、劣化したたんぱく質が溜まり、記憶の形成が上手くいかなくなってしまいます。加えて、劣化したたんぱく質が蓄積していくと、アルツハイマー型認知症のリスクも高まります。健康な脳を維持するために、睡眠をおろそかにしてはいけません」
運動や、音楽・アートの鑑賞も脳の機能維持につながるそうです(下を参照)。
「年齢を重ねると、エピソード記憶は減っていきますが、【意味記憶】は増えていきます (記憶の分類の図を参照) 。これは、簡単に言えば知識。不要な記憶を減らしたぶん、豊富な経験から多くの知識を蓄えているのです」
忘れることができるから、知識が増え、自分の頭で考えることができる。私たちはさらに成長していけるということ!これから年齢を重ねることが、ちょっと楽しみになりませんか?
集中系と分散系をバランスよく使う。
どちらか一方を使い続けると、脳が疲弊してしまいます。休ませるために、切り換えをしましょう。
睡眠をとる。
睡眠はとても重要。睡眠の質にこだわらず、眠る時間を確保しましょう。脳は、情報の80%を視覚から得ていますから、目を閉じるだけでも情報の遮断になり、脳を休めることができます。ベッドでは、スマホを見るのをやめましょう。
運動をする。
筋肉が伸縮することで分泌されるさまざまな成長因子が、脳を保護しています。ほかに海馬や、脳の喜びの回路を活性化する作用もあります。激しい運動ではなく、気持ちよくできる範囲で行いましょう。
音楽・アートを鑑賞する。
好きな音楽は、運動と同じく脳の喜びの回路を活性化させたり、脳の血流を増やす作用があります。アートは、脳に蓄積されたさまざまな記憶を活性化させ、それぞれを結びつけます。思わぬ創造性へとつながる可能性があります。
















